劇場版『機動警察パトレイバー』

今回見たのは劇場版のみ。『機動警察パトレイバー the movie』『機動警察パトレイバー2 the movie』『WXIII 機動警察パトレイバー』および『ミニパト』。OVA版、TV版はべつの機会に。

いや素晴らしい。神山健治ここで「『ガンダム』である程度完成してしまったリアルロボット路線で、その壁を突き破ろうとした作品は、アニメ史の中で『ボトムズ』と『パトレイバー』しかないと思うんですよ。」といっているが、まさにその通りだと思った。まあ彼はある意味身内のようなものだから、押井作品についてどれだけ公平に考えているか分からないが、でもこの評価は正しいと思う。

「リアルロボット路線で」、というところに注目したい。この観点からするとやはり押井作品と『WXIII 機動警察パトレイバー』は区別せざるを得ない。ちなみに『ミニパト』は参考資料として大いに役立った。

例によってウィキペディアから始めると、『機動警察パトレイバー2 the movie』の項目で、レイバーがあまり登場しないことで一部のファンからは評価されなかった、という記述があるが、ぼくは逆にこの点において評価できるのではないかと思っている。

というのは、このふたつの押井作品がリアルロボット的な思考という観点から当然到達せざるを得ない地点にたどり着いたからだ。以前書いた『トップをねらえ!』二作についてのエントリーで、リアルロボットにおける必要条件について書いた。つまり量産可能性と誰にでも操作できる可能性だ。『パトレイバー』シリーズはこのことをロボットを軍事から切り離して日常生活に導入する、ということでこの条件を一挙に満たした。もともとはレイバーはその名の通り(まあ「ロボット」でもその名の通りなのだが)土木や建設用の労働機械として開発された。で、それを悪用した犯罪などに対応するために警察で部署を設立したということだ。確か操作するには免許が必要だったと思うが、まあ工事用の機械なら当然量産できるだろうし、そういった工事に従事する人なら操作できなければなるまい。で、そういう条件がある以上、必然的に帰結されなければならないことがある。そのことが映画第1作目で台詞として示されている。

どんなに技術が進んでもこれだけは変わらねえ。機械を作るやつ、整備するやつ、使うやつ、人間の側が間違いを起こさなけりゃ機械も決して悪さしねえもんだ。

これは整備班長の榊清太郎の台詞だが、端的にまとめるとロボットの人間への従属、あるいはその役割の限定ということができる。ロボットは人間の技術によって生まれるので、それ以上のことは当然できないし、またしてもらっては困る。たぶんSFとかではこういった規則が比較的厳密になされていると思うが、ぼくはそのあたりの知識が皆無なのでその方面でのコメントはできない。ただ素人考えでもそれは当然で、コントロール可能性というものはロボットを生産する上で絶対に守らなければいけない点だ。『エヴァ』のようにいきなりエヴァ使徒を食ったりしたら困るわけだ。この観点からすると映画第1作目はこのロボットのコントロール可能性をめぐる争いということもできる。つまり、ロボットは人間に従属しなければいけない存在だが、どの人間か、という問題は残る。ある意味で犯人はOSに特殊なプログラムを忍び込ませることによってロボットの主導権を奪おうとしたと考えられるのだ。引用した台詞になぞらえていうならば、間違いを起こす人間が使ったり整備したりしたら間違いなく悪さしてしまうということだ。

そして第2作目ではさらに一歩先に進む。人間が間違いを起こさなければ機械は決して悪さしないとすれば、機械は本来の機能を果たすことになる。つまり媒介であり、手段だ。レイバーは一般に普及している機械であり、この物語の中では特殊なテクノロジーによって作られたものではない。まあ自動車とかと同じだろう。したがって敵がテロを企てるにあたって、レイバーの存在は考慮に入れるべき一要素ではあるが、それ自身目的にはならない可能性も高い。第1作目で標的になるのはレイバー単体ではなくて、東京中の全レイバーだった。そのことによって初めてテロに相当する大きな問題となり得た。

つまり、リアルロボット的な思考を突き詰めると、ロボット自身それほど重要なものではない、つまり日常化するという帰結に至らざるを得ない。その意味で神山がいうように、リアルロボット路線のある種の極点に位置づけられると考えられる。

もう一つこれらの作品で重要なことは、ロボットを軍事から切り離したということだ。まあこの点についてはよくいわれていると思うが、ぼくにとってもやはり看過できない点だ。というのは、「敵とは何か」という問いを先鋭化させるからだ。素朴に考えて軍においては敵はあらかじめ決まっている。正確にいえばあらかじめ敵が決まった上でしか軍は戦闘行為をできない。これが守られなければ文民統制は成立しない。場合によっては敵を決めるのではなくて戦場を決めるということもあり得る。そしてもちろんテロやゲリラの可能性はつねにあるのだから、実際に戦っている人たちにとって敵がつねに可視的であるとは限らない。
しかし警察にとってはどうだろうか。軍にとっては「敵がつねに可視的であるとは限らない」が、警察にとっては多くの場合敵は不可視だ。だから警察には捜査権の名のもとにそれを可視化する権限を与えられている。敵が常に不可視であるということは、敵とは何かという問いを常に突きつけられているということに他ならない。
敵の脅威とは何か、ということを考えた時、多くのロボットアニメはむかしも今も「強大な敵」を想定してきたと思う。つまりロボットでないと対抗できないような敵だ。『パトレイバー』シリーズはそこにツッコミをする。つまり本当に敵の脅威というものは圧倒的な強さなのだろうか。もちろん第一に、そんなものあるのか、というのがある。しかし同時に、本当に脅威なのは敵の強さなのではなくて、敵が見えない、何が敵か分からない、ということにあるのではないか、これが『パトレイバー』の問いである。「強大な敵」を想定した場合、ロボットの登場は不可欠となり、物語の中で比重が増す。だが敵の不可視性が問題になると、ロボットがでてきて戦うことはあまり問題にならない。正確にいうならば、ロボットがでてきて戦うのは最終的な段階、つまり敵が可視化された段階だ。その時点では既に敵の脅威は半減しているだろう。したがってレイバーの戦闘はそれほど問題にはならない。それはリアルロボット的な思考の結果であるということができる。

この観点からすると、『WXIII 機動警察パトレイバー』は非常に残念な作品だった。前2作で重ねてきた思考が後戻りしてしまったような気がした。敵の脅威がその強さのみ(といっていいと思う)によって表現されてしまったからだ。そこではレイバーによる戦闘が不可欠だ。しかし既に述べたように、前2作で到達したリアルロボット的な問いによれば、そういったロボットによる戦闘の不可欠性を限りなくゼロに近づけようとすることが重要だったはずだ。

簡単に次のようにまとめられるだろう。押井版『パトレイバー』で提起されたリアルロボット的な問いは「ロボット(レイバー)は不可欠なのか?」というものである。そしてこれはふたつの側面から突き詰められた。一つは設定、というかロボットを取り巻く構造上の問題として。つまりそれは人間によって可能なテクノロジーの範囲内で開発されたものである、ということ。ロボットはコントロール可能なものでなければならない。仮に暴走した、コントロールの権限を奪われたとしてもそれに対処する術は保持できなければいけない。第2作目の荒川茂樹の言葉にしたがえば「スタンドアローンで制御不能な兵器などナンセンス」ということだ。ここからもう一つの重要なポイントが派生する。それは代替可能性だ。もともとは土木や建設などの現場で使用されるために開発されたものだ(そもそも人型で汎用性のある機械という考え方自体がコストなどの観点からどの程度現実的かどうかは疑わしいと思うが、まあその点はよい)。その意味では役割を果たすならばそれがレイバーである必要はない。レイバーとはただの道具にすぎない。そこから第2作目における泉野明の次のような台詞がでてくる。

あたし、いつまでもレイバーが好きなだけの女の子でいたくない。レイバーが好きな自分に、甘えていたくないの。

この言葉は一見すると『トップをねらえ2!』でのノノの「バスターマシンさえあればノノリリのようになれるとか考えているようじゃあ、ノノリリにはなれない」的な台詞と似ているように感じられるが、全く別のものだ。なぜならノノ自身がバスターマシンでバスターマシン的な力を内面化できるのに対して、『パトレイバー』においてはレイバーは「それでなくてもよい存在」だからだ。いってみればノノにとってのバスターマシンは「依存しなくてもいい存在」であるのに対し、レイバーは「依存してはいけない存在」であるということができる。

もう一つの側面は敵についての思考である。つまり、敵の脅威というものがその不可視性にある以上、それを可視化することがまず第一に必要で、そして最も重要なことであるといえる。そしてそのために必要なのは捜査であって、そこではレイバーはほとんど活躍する場は与えられない。レイバーによる戦闘というのはその可視化が終了した段階、つまり敵の脅威がほとんど失われた最終的な段階においてしか行われない。最後の後始末的な段階だ。

少なくとも押井版の劇場版『パトレイバー』では、このようにレイバーを生産したり活用、管理したりする場、およびレイバーが対峙すべき敵についての問いを突き詰めることによってリアルロボットというものをある頂点へと導いたといえると思う。リアルロボットアニメって存在したんだ、という感動がぼくにはあった。あとは『ボトムズ』を見てみないとな。