セカイ系唯名論

またしてもGAINAXの『この醜くも美しい世界』。これだけ見ればいいか。しかしまだ大物(?)の『ふしぎの海のナディア』が残っている。まあ長いんでおいそれと手を出せないのだが、いずれ見るでしょう。

というわけでこの作品だが、正直なんか名前負けしている気がした。というか何となく『少女革命ウテナ』的な感じを想像していたのだが全然違った。これまで見たGAINAXの作品はだいたい細部にわたって設定が決まっているといったような緻密さが感じられたのだが、この作品はそういう感じではなかった。これまで見たGAINAXの作品の中で一番きつかった。

一応見たものについてはここに何かしら書こうと決めているのだが、何を書いたらいいのやら…。で、考えたのがセカイ系のことだ。今はなぜかだいぶ変わってしまったが、かつてウィキペディアセカイ系の項目では結構細かい説明がされていて、セカイ系の作品が列挙されていた。今こちらに引用されているようなので、それを見てみると『この醜くも美しい世界』が含まれている。

まあ今さらな話なのだろうが、正直言うと僕はこのセカイ系なるものがなんだかよくわからない。とりあえずリンク元セカイ系の定義から始める。

「世界」(セカイ)には一人称の主人公である「ボク」と二人称となるヒロインあるいはパートナーの「キミ」を中心とした主人公周辺しか存在しないという設定の元、救世主である主人公周辺の登場人物の個人的行為や精神的資質・対人関係・内面的葛藤等がそのまま「世界」の命運を左右していくという形で物語が進行していく作品スタイルを指す。このジャンルの起源を遡ればかなり古いところにたどり着く。

主人公が救世主であるという設定上の前提条件に社会的裏付けが存在せず、個人的事象に由来する小状況がハルマゲドン(世界の破滅)や世界を救う行為等の大状況に対し、社会や世間・国家等といった中状況を一切介さずに直接アクセスするという展開が物語の基本を成す。

何が分からないってその「セカイ」ってなんだということだ。「個人的事象に由来する小状況」ってのはなんか分かる。それはたぶん対幻想だろう。だがこの「大状況」というのはなんなのだろう。じじつ、リンク元で示されている作品それぞれにおいてその「セカイ」に相当するものはかなり異なる。『この醜くも美しい世界』ではそれは人類って感じだろう。あるいは『なるたる』でいえばそれは地球となるだろうか。(なぜここに挙げられているのかいまいちよくわからないが)『ひぐらしのなく頃に』だとそれは雛見沢村になるのだろうか。もしかしたらこれは罪滅ぼし編のことなのかもしれないが。まあいずれにしても各作品で「セカイ」なるものはかなり異なるだろう。

おそらくこの点を考えると、作品のジャンルとして「セカイ系」というものを正確に定義するのはかなり困難だと思う。こちらによるとこのもともとこの言葉は「「エヴァっぽい」って口に出すだけで、あーエヴァかよ、って思ってしまうから、その代替」でいわれはじめたらしいので、そもそも特定のジャンルとして考えられてはいないのだろう。

挙げられている作品を僅かながら見た印象としては、大状況と小状況が直接的に結びつく、というよりも、確固とした疑い得ない小状況と漠然としていて曖昧な大状況、という二重性が「セカイ系」と呼ばれうる作品群を特徴づけていると思う。

その点についてこちらに説明がある。「世界」たる外部は本質的に理解不能な何ものかである。いわばそれを理解可能なものに還元するために「我々」と「世界」の間にコンテクストをおく。これが社会というものである。このコンテクストが解体されたとき、内部はあらかじめある外部にむき出しにさらされるわけではない。

このように、いままでは、内部[きみとぼく←→社会]/外部[世界]という境界において、外部[世界]に神話は生まれたのに対して、「セカイ系」では、社会というハイコンテクストが解体され、内部が[きみとぼく]へと縮小する。そのために、内部[きみとぼく]/外部[世界]という、ボクの近接で神話が生まれるのである。

いってみればコンテクストをもたない内部が外部をでっち上げる。言い換えれば何がセカイであってもいいということだ。これは今回見た『この醜くも美しい世界』にも感じたことだ。そもそも覚醒したヒロインとかヒロインのことを知っているまわりの登場人物たちが世界が滅びるっていっているだけじゃん、と。せめて鬼頭莫宏みたいに警察とか軍とかが動き出して、何かしろよと。こちらにこの作品についてのコメントがあるが、このコメントがすべてを語っていると思う。

この作品が、失敗作なのは、中途半端に意欲的であるところに尽きる。制作者側の考えは手に取るように理解できる。すなわち、どこからともなくやってきた不思議な少女がさほど取り柄のない主人公と恋に落ちるという設定だけでは、インパクトが不足するだろうから、そこに地球上数度に渡って起きてきた大絶滅という大がかりな設定を絡めることで壮大な物語を語ろう、とこういうわけだ。

つまり「きみとぼく」ありきで、その他のものは味付け程度にすぎないと。その通りだと思う。

もちろん「セカイ系」の範疇に入る作品でも失敗作になっていないものもたくさんあるだろう。もしかしたら「セカイ系」の作品があるのではなくて、「セカイ系っぽい」作品しかないのかもしれないが、ぼくの印象では「セカイ系」と呼ばれている作品の多くに共通することがあると思う。

それは「セカイ」と言っているということだ。人類が滅びる、じゃなくて「セカイ」が滅びる、と。自分と自分のまわりの人間を取り囲む環境を「セカイ」と呼ぶようになったのはそんなにむかしのことではないような気がする。この作品を見て何となく思ったことなので、以前見た作品についてちゃんと検証できていないのだが、セカイ系にカテゴライズされる作品の多くは「セカイ」といっていると思う。つまり物語の内容が問題なのではない。あることがらを「セカイ」と名付けているかどうかでセカイ系かどうかが決まるのではないだろうか。今見ている『超時空要塞マクロス』ではいまのところ人類とか地球とか言っていたはずだ。その意味でこれはセカイ系ではない。また戦闘ものとかロボットものとかではなくても、「セカイ」といっていればセカイ系に分類してもいいのではないか。ちなみに『半分の月がのぼる空』のラジオCDのCMで、「お前のいないセカイなんだぜ」的なことを言っていたが、確認のためにアニメ版を見てみたら最後に「半分の月がセカイを照らしていた」とかいったナレーションが入るだけで該当する台詞はなかった。そのあたりは原作を読まなければいけないのだろうが、いずれにしてもそこセカイっていう必要ねえだろ、と思うようなところでセカイといっている作品は多いような気がする。もうそういうのすべてセカイ系でいいんじゃないだろうか。そもそも「世界」って言葉はそんなに日常的に使う言葉じゃないだろう。