しつこくリアルロボットの話

けっこうロボットアニメ(といってもファーストガンダム以降だが)をみたのでもう一度リアルロボットについて考えてみようと思う。リアルロボット/スーパーロボットの区別ってここでブログを書いてその反応とかを見ている限り、いろいろ評判が悪いというか、なんというかだが、僕としては考える余地のある問題かなあとは思っている。個人的な理由としては、やっぱり『ゲッターロボ』シリーズとか『神魂合体ゴーダンナー!!』とかみるのが本当にきつくて、それらは一般的にスーパーロボットと見なされているというのがある。最初はこんな感じでいい加減なものだ。で直感的にこれらの作品とほかの僕が好む作品とは違うなあと思うところがあって、まあその違いは検証してみる価値はあるかなと。

この区別をあまりよく思わない人はなにを問題視しているかと察するに、リアル/スーパーの区別をリアル/非リアルとしたうえで、そもそもロボットにリアルとかあるか! ってことなのだと思う。だからこの区別を弁護(?)するためにはリアルとは何か、という問題に取りかからなければいけないのだろう。

一番いけないと思うのは、リアルであることとリアルだと思うことを混同することだ。ネットとかをみてみると、ガンダムボトムズパトレイバーもリアルじゃないだろ、という時、多くの場合俺はそれらをリアルだと感じない、ということを示しているのではないか。もちろんそれは僕自身がガンダムとかボトムズとかをリアルだと信じているかどうかということとは関係ない。問題なのは、リアル/スーパーを区別するときにリアルなるものを概念化しなければいけないだろうということだ。もちろんそのうえでボトムズがリアルロボット足り得ないということはあり得るだろう。その意味でいうと、リアル/スーパーの区別を批判するときに二分法はいかんという人がいるが、そういう概念化をしていない以上二分法すらしていないのではないだろうか。

ではリアルとは何かって話なのだが、ちょっとだけ語源を参照するならば、realとはラテン語のresに由来するだろう(それより先は知らん)。resとは物だ。ちなみに調べていないけどメールの返信のre:はresの奪格からきてるんじゃないだろうか。違ったらすみません。で物とは何かってことだが、これはいろいろな人にとって解釈が違うだろう。例えば可視的なもの(したがって見えないものはそこに含まれない)とする人もいるだろうし質量を持つものという解釈もあるだろう。だからリアル/スーパーの区別にあたってはリアルとは何かということについてあらかじめ決めておく必要があるだろう。僕としてはそれは形而下的なものとしていいのではないかと思う。つまりロボットを形而下的なものとしてとらえているのをリアルロボットと。ではスーパーロボットとは形而上学的なものとなるのだろうか。形而上学的なロボットって何だ。これはもちろん村上春樹的な意味ではない(と思う)。多分ここでいう非リアルということについてはふたつの可能性を指摘できるだろう。ある意味インターフェースとしての両義性(それによって対象にアクセス可能になるが、直接的なアクセスを不可能にする)を看過してしまうか、あるいは人間的な内面性を持っているか。このふたつは多くの場合重なる。いうまでもなく内面性、そして自我とは形而上学的なものだ。だから精神分析は科学的ではないという批判が成立する。要するにこのロボットはリアルロボットだ、というとき、それはこのロボットには内面性がないというに等しい。これは主観的な判断、受け手の印象によるものではなく、もちろんこれを100%排除することは難しいだろうが、とりあえずある程度客観的に判断できるのではないかと期待している。

しかし多分これではまだ曖昧だ。なぜならロボットにおける内面性の有無というのはいくつか違う面において検証しうるからだ。ぱっと思い浮かぶのは次のふたつの側面だ。

設定面:これが一番最初に浮かんでくることかなと思う。単純にいえば物語中においてロボットがどういうものかということだ。リアルロボット的な観点、つまりロボットをものとして考えるならばロボットとは多くの場合兵器なのだからそれなりの管理が必要だろう。荒川茂樹にいわせれば兵器がスタンドアローンだなんてナンセンスだ。逆にロボットがものではなく内面性を持ち合わす何ものかであるならばそのような管理は倫理的な問題になりうる。「かわいそう」とか言い出すやつもでてくるだろう。そしてこの管理がしっかりしていなければ敵方に利用されることもある。ロボット自身に意志がないのなら、ロボットが相手の手に渡ったときはむしろ主人公たちからみて敵になること(あるいはその逆)も十分考えられる。これが『機動戦士Zガンダム』であり『機動戦士ガンダム 0083』、そしてある意味では『戦闘メカ ザブングル』の例だ。またロボット自体に内面性が組み込まれているということもある。組み込まれているといっても人工的にそうである必要はなくて、いわゆる生物的なものでもよい。要は内面性があるかどうかだ。例えば前者の意味では『Z.O.E. dolores,i』がそうだし、後者では『ブレンパワード』、『新世紀エヴァンゲリオン』がそうだろう。しかしこの点については解釈の余地があり得る。僕はここで内面性を自立的な意志の存在と考えているが、アンチボディやエヴァがそういったものを持ち合わせているかどうかは異論の余地があろう。例えばこういうことだ。昔心理学の授業で英語をしゃべるインコのヴィデオをみたが、そこではインコがいうことを聞かないので担当者がいなくなってしまった。するとインコはI'm sorry I'm sorryと繰り返し言った。しかしこれはインコがすまないと思っているからそういったのか(正確にいえばすまないと思っている必要はない、そういえば担当者が戻ってきてくれるとインコが思っていればいいのだが)、あるいは担当者がある条件を満たしたいなくなったら自動的にそう言うように教育、インプットされているかはそのヴィデオだけでは判断できない。後者の場合人間がそれを持っているという意味で自我、内面性を持っているとは言えないだろう(そして人間と言語的コミュニケーションができるともいえまい)。しかしみてる人はインコにそういうものがあると思うことはできる。アンチボディに触れることで比馬が人間的な交流をできたと信じることができるのと同じように。なぜそのように思うことができるのか、それはそのメカニズムを完全には把握していないからだ。インコの脳や知性について我々は完全には把握していない。エヴァについてもアンチボディについてもそのメカニズムは完全には明らかになっていない。わからないものを人間的な何ものかによって補うということはあり得ることだと思う。その意味で比馬がアンチボディに話しかけることと野明がアルフォンスに話しかけることは意味がまったく異なる。アルフォンスに対する野明の関係は単なるフェティシズムだ。フェティッシュの語源はラテン語にまでさかのぼるとfacticiusつまり人工物のとか偽りのとかいう意味らしい。つまり人工物を人のように愛するのが野明の態度で、後々そのような態度は彼女自身によって乗り越えられる。比馬の態度はまったくそれとは違う。そもそもアンチボディは人工物ではない。ここで重要なことは、物語中において登場人物がよくわからないロボット的なものに対して人間的な何かを見いだすということと我々視聴者がそうするということを(究極的には不可能かもしれないが)混同してはいけないということだ。
あと付け加えるならば、河森正治の作品についてもこういったロボットの物象化(?)といった傾向が見られる。つまりどういうことかというと、河森にとってはロボットは三次元的に復元可能なものでなければならない。プラモデルやら超合金やらにしたときに、ちゃんとアニメで行われるように変形や合体ができるようでなければならない。こういった観点から河森はリアルロボット(=物としてのロボット)を突き詰めていったと考えることもできる。

演出面:これについては富野ガンダムをみて気がついたのだが、意外とこの点については看過されてきたのかなと思った。もちろん現場の人は意識的だっただろうが。つまりどういうことかというと、ロボットが人間のように振る舞うかどうかということだ。僕が記憶に残しているのは、ファーストガンダムで元ジオン軍のおっさんが子供たちと一緒にどっかの孤島で暮らしている話で、なんか崖の上でそのおっさんのザクとの戦闘があった。ザクの脇腹が敵の攻撃によってやられたとき、手でその傷口(?)を押さえて膝をつきそうになるシーンがあった。ロボットなんだから傷口を押さえる必要なんてない。しかしロボット同士の戦闘を人間同士の戦闘のように演出するのであればそれは自然だといえるかもしれない。その意味でいうと、ロボットアニメとは兵器による戦闘を生身の人間同士による戦闘のように演出したいがために作り出されたものであるということができるかもしれない。おそらく富野アニメに限らずとも、こういった人間が戦闘しているような演出というのはそこかしこに見いだすことができるのだと思う。しかし富野に関していえば、このような演出にある種の批判を作品内に込めているのかなということも感じた。それはジオングに関してだ。本来ならばロボットなのだから人間のように戦う必要はない。人型の造形をする必要もない。しかしえらい人にはそれがわからないと。第一義的にはその偉い人とはジオン軍の偉い人だろうが、まあロボットが人型でないと困る人たちはほかにもいるだろう。そういう人たちに対する当てつけであるとみることはできなくもないし、僕は読んだりみたりしていないからわからないが、監督自身もそういうことを言っててもおかしくないだろう。そしてこういった演出面での特徴は上述した設定面にもかかわってくるのだが、人間が振る舞うように振る舞えるということは機械としての媒介性が失われるということにも繋がる。Vガンダムは両利きであるらしいが、それはウッソが両利きとして育てられたかららしい。つまり搭乗者の特徴がそのままロボットに反映されているのだ。例えば外科手術用のロボットとかで、執刀医の手の動きをそのまま反映させて直接するにはあまりにも小さい部位の手術を可能にするものがあったと思うが、ロボットの操作がそういうタイプのものであればまあ説得的ではある(『ガン×ソード』はそういう感じだったか?)。しかしガンダムはそうではなかったと思う。むしろここでは両手でビームサーベルなりミサイルなりを扱えるようにしたいという演出的な配慮がおおきいのだと思う。あと非富野ロボットでいえば思い浮かぶのは『交響詩編エウレカセブン』の第48話のジエンドとかかな。

リアルロボット/スーパーロボット(非リアルロボット)の区別はロボットを物として捉えるかそうでないかということなのだが、それには二通りの考え方がある。つまりロボットが物として動くか、まわりのものがロボットを物として扱うかだ。言い方を変えればロボットが内面性を持ったもの(=人間)のように振る舞うか、まわりの登場人物がロボットが内面性を持つ存在であるかのように振る舞うかだ*1。これらのことが上記ふたつのポイントと関連する。実際にはまわりの登場人物がロボットをものとして扱っていてもまるで人間のように振る舞うこともあるだろうから(僕はガンダムシリーズはそういう側面がきわめて強いと感じた)、この区別においては「この作品はリアルロボットアニメだ」と断ずることはできない。むしろ個々のロボット、個々のシーンがリアルロボット的かそうでないかという区別しかできないだろう。いずれにしても「この作品はリアルだからリアルロボットだ」的なことはやめよう。意味ないから。

*1:この点に関してはロボットが未知のテクノロジーやら物質やらによってつくられているかどうかということがおおきくかかわってくるだろう。これは『勇者ライディーン』とか『伝説巨神イデオン』とかからすでにみられるものだろうが、未知のものが人間的な内面性と結びついたという意味ではやはり『エヴァ』以降とくに顕著になったのではないだろうか(とかいいながら『機神大戦ギガンティックフォーミュラ』ぐらいしか浮かばない…orz)、いずれにしてもそれが未知のものであるならば人間と同様に内面性があるということを否定できないからだ。

力のインフレの話

インタラクティヴ読書ノート別館の別館:『ユリイカ』2008年6月号「特集:マンガ批評の新展開」
以前僕が考えていたことと関連しているので。言及されているユリイカを読んでないので見当違いになってしまうかもしれませんが。

リンク先では、ジャンプにおける戦闘マンガの特徴として「力のインフレ」をあげ、この特徴が次第に薄れ、それにかわって「制約の中での頭脳戦」を行うといったようなことが増えてきたとしている。しかし『ハンター×ハンター』におけるようにそういった限定を前提としていながらもどんどん力のインフレに向かってしまっているというある種の矛盾がある、と。

この点については僕もいくつかエントリーを書いている(こちら)。そこで書いたことは、一般に言われているように「力のインフレ」というものがジャンプ的な戦闘マンガにおける特徴の本質的なものなのだろうかということだ。たしかにそこに含まれる多くのマンガにおいてインフレがおこっているなあと思うことは多いのだが、ではそれを可能にするものは何なのか。それは力の可視性だ。何百万パワーとかスカウターとか。力なるものが客観的に比較可能だから、インフレが客観的に確認できる。その意味で言うと『ハンター×ハンター』はこの流れからまったく外れていない。例えばある時期までのキルアのチキンぶりはまさにこの力の可視性によってもたらされている。まあこの作品でやりたいことは僕なりには理解しているつもりで、それは強い敵をがんがんやっつけるというよりも、念というシステムをできる限り網羅的に記述するということなのだと思う。そしておそらくこのことは『DEATH NOTE』にも共通している。そしてそのためには念というものの質と量が可視的でなければならなかった。だから円の広さとかで能力が客観的に測定でき、そのため力のインフレが可能になる下地が用意されていた。その意味で力のインフレを回避できたのは『ジョジョの奇妙な冒険』ぐらいではないかと思う。ではなぜこの作品が回避できたか。以前のエントリーではその理由として能力を外在化したということをあげた。つまり能力を持っているのはスタンドであって、スタンドで戦っても本人は別に強くはならない。たしかにそうだと思うのだが、多分本当の理由は「比較しないから」だと思う。つまり今戦っているやつはあのときのやつより強いとか弱いとか、そういう記述はあんまりなかったと思う。事実、『ハンター×ハンター』で力のインフレが明白になったのは、ハンター協会の連中が束になったかかっても蟲の王様に勝てないとキルアが感じた瞬間だ。つまり比較しているわけだ。もちろん、力の可視性はまさにこの力の比較のために必要な要素だった。

鋼の錬金術師』については、なにがインフレを回避させたかというと、あんまり読んでないのでたいしたことは言えないが、少なくとも言えるのは手打ちがあるということだろう。要するに戦いに勝つことが目的なのではなくて、目的なその先にあるであろう何かで、その何かに到達できる、あるいは近づけるならば別に戦う必要はない。つまり戦いの前のネゴシエーションがより重要になる。このことは『ハンター×ハンター』にも言えることだと思う*1。そしてこのネゴシエーションは力が可視的では決してないということが前提となる。正確にいえば、仮に可視的であるとしても、それを証立てるものは何もない、つまりそれが本当に正しいかどうかは誰もわからないということだ。だからネゴシエーションを通じて探り、次の行動を決定する。いずれにしても『鋼の錬金術師』はジャンプ作品にみられる力の可視性とはかなり遠いところに位置づけられるだろう。

*1:この点に関してはこの作品はちょっと複雑で、正確にいうならば、力の可視性が前提だから、その可視的な力を偽るという選択肢がでてきて、それゆえに可視性を前提としないネゴシエーションと同様の困難さが生じるということだと思う。

富野ガンダム+宇宙世紀OVAその他

アニメ関係のエントリーはかなりあいてしまったが、その間にいくつかロボットアニメを見た。とりあえず『機動戦士ガンダム』以降の富野監督作品はすべて見たことになるのかな。あと高橋良輔作品とOVA作品を少し。もちろんすべてについて語るにはあまりにも多いので、見た順に一番古いものから。『蒼い彗星SPTレイズナー』『機動戦士ガンダム』『機動戦士Zガンダム』『機動戦士ガンダムZZ』『逆襲のシャア』『機動戦士ガンダムF91』『機動戦士Vガンダム』『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』『機動戦士ガンダム0083 Stardust Memory』『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』。懸案だった富野ガンダムおよび宇宙世紀ものはすべて見た。まあ『機動戦士ガンダム MS IGLOO』は残っているが、あれはちょっと…。残りの富野作品については別の機会に何か書くかもしれない。

最初何となく蒼い彗星って巨人の松本を思わせるなとか思って(あれは青い稲妻か)『レイズナー』を見てみたがけっこう面白くてほかのロボットアニメも見てみようとガンダムシリーズに手を付けた。長いなと思っていたが見てみると意外と長く感じなかったので次から次へと見てしまい、あれよあれよという間に。次は非富野ガンダムダンバイン系か。何か書こうと思うが、まとめて、しかもけっこう時間をかけてみたので、話とか忘れている部分が多い。まあ大したことは書けなかろう。各作品についてバラバラに書いているので、いろいろ重複とかあるが、まあよい。

蒼い彗星SPTレイズナー』:もともと一年かけてやるところを打ち切りのために三ヶ月分まるまる削られたらしい。おかげで最終話が完全にイミフだったが、OVAの第03話でいい具合に補完できた。高橋作品はこれと『装甲騎兵ボトムズ』しかみてないけど、彼の物語は基本的にある謎があって、それが回を追うにしたがって明らかになってゆく、といったものなのだろうか(だから続編がつくりづらい)。この作品の謎について言えば、『超時空要塞マクロス』をみたあとでは、なぜ敵方はそんなにこの謎について神経質になっているのかとか思った。いや気持ちはわかるが。この二つの作品で、かかわっている謎はほとんど同じものなのだが、結論は全く違う。まあ『マクロス』が楽天的すぎるのだが。いずれにしても高橋作品はもっと見てみたい。

機動戦士ガンダム』:昔みた劇場版の記憶がまだ残っていて、けっこう「見た見た」といったシーンがあった。アニメに関して、僕は工藤並みに立ち上がりが悪くて、最初の数話なんか何やってるか全然わからないことが多いのだが、今回はおかげでそういうことはなかった。打ち切りと聞いたので話が尻切れとんぼになっているのかなと思ったが、本編を見ただけなら打ち切りとはわからなかったと思う。どうやら一話完結の話を削ったらしい。正直見るのきついかなとか思っていたが、そんなことはなく、すいすい見続けることができた。これが名作ということなのか。あとどうでもいいことだが、あらゆるところに波平がいて、ちょっと混乱した。どうなんだろう。今よりも昔の方が声優が一人で複数の役をやることが多かったのではないだろうか。だから逆に『らき☆すた』とかではくじらと立木文彦が複数の役をこなすことがニコニコで話題になったりしうるとか。そういえば『ボトムズ』とかでも大林隆介(僕にとっては後藤警部補だ)がいろんな役をやっていたような。

機動戦士Zガンダム』+劇場版:とりあえずはじまりは敵陣への侵入なのね。なんかこれ書き始めた時点でかなり忘れていたので、内容がちょっと変わっているらしい劇場版も見てみた。一番気になったのは、ファーストと比べてニュータイプってものに頼り過ぎかなということだ。ニュータイプって要は設定や演出上のご都合でしょ? もし後続の作品がファーストを超えられないとしたら、それはどんどんニュータイプに依存していったからだと思う。考えてみると、ファーストガンダムでは意外とニュータイプという設定に依存してはいなくて、むしろ後づけ感が強いように思える。そもそも別にニュータイプという設定を使わなくても、アムロという人が初見でガンダムを上手いこと乗りこなせるということにはできるでしょう。現実にも何百万人に一人とかそういう人がいてもおかしくないと思う。むしろほかの人が「アムロと同じように」乗りこなせるということを可能にするためにニュータイプという設定が必要だったのだと思う。つまり、富野がどう思っていたかわからないが、ニュータイプというものがあったためにこういう続編の作品群が出来上がったと考えることができるのではないだろうか。

機動戦士ガンダムZZ』:第33話ぐらい、カミーユが入院している病院のシーンでドクターエリザベスという人を呼び出すアナウンスがあった。これって『レイズナー』のドクターエリザベスと関係あるのだろうか。まあどでもいい。以前Gacktと富野がテレビかなにかでしゃべっていたとき、ZZは語りたくもない駄作、といった感じで暗黙の了解があったようで、そういうふうに扱われていた(富野の発言を追っている人にとっては当然のことかもしれないが)。事実、これを見たあとにwikiとかを見て知ったのだが、劇場版Zではテレビ版のストーリーの変更が行われていて、逆襲のシャアとあわせて劇場版7作でガンダム正史とするとZZはそこから外れるらしい。これはどうなんだろう。そもそもZの結末に不満があったのか、あるいはZZをなかったことにしたかったからそうしたのか。まあでも松坂並みに立ち上がりの悪い僕としては前半が一話完結っぽいコメディタッチの作風であることで、意外とすんなり入っていけた。以前のシリーズとの比較で言うならば、やはりニュータイプという設定に対する依存は強くなっているのかなと思った。おそらくニュータイプって言うのは、マシンに対する高い順応性とか高度な反射神経といったことではなくて、あり得ないコミュニケーションをするために必要な方便なのだろう。これは設定面じゃなくて演出、脚本面の問題なのだと思うが、富野的ドラマの悲劇性は知ること、知ってしまうことにあると思う。その意味で言うと、僕が今までここで(とりわけ新海誠作品新海誠作品についてのエントリー『ガン×ソード』と『ダ・カーポ』を比較したエントリーで)述べてきた「何かを失う物語」と「何かを失ったことに気づく物語」の区別に関して言えば、富野的物語は圧倒的に前者にかかわるものが多い。もしかしたら『∀ガンダム』のエンディングは後者に属する物語かもしれないが。なんかZZそのものとかなり離れてしまったが、このように富野的な物語を進めていく上で必要な「知る」ということをかなり困難な状況でも可能にするものとしてニュータイプという設定は非常に便利だったのではないだろうか。確かどちらかのブログで拝見したのだが、「職業軍人アムロに簡単にやられてしまうのがリアルじゃない」という意見に対していやアムロはすごく努力しているから不思議はない、という議論があった。だとしたらなぜニュータイプという設定が必要であったかということが問題になるはずだ。

逆襲のシャア』:これを見る前に思ったことは、やっと大人が主人公になったか、ということだ。ちょっと辟易していた。正確にいえば子供が主人公でもいいのだが、いちいち「大人なんて」とか言うのがうざい。とか思っていたらまたガキがでてきた。しかも色々余計なことをする。純粋にアムロとシャアの対決だけが見たかった。こんなこといっては何だが、ここまで見てきて、ニュータイプという設定のないガンダムシリーズを見たかったなと思う。結局この設定があるからガキがでてくる。もしかしたら発想の順番は逆で、子供を主人公というかパイロットにしたいためにニュータイプという設定をつくったのかもしれないが。

機動戦士ガンダムF91』:何だこれ総集編か? とか思うほど展開が早い、というかなんか端折られている気がしたが、実際もともとテレビシリーズにするつもりのものだったらしい。これはテレビシリーズで見たかった。ところで主題歌を歌っているが森口博子だが、多分この当時、ガンダムシリーズを知らない人にとっては彼女はバラエティ番組にでてるタレントというイメージだったろうと思うし、僕にとってもそうだった。あまり記憶が定かではないのだが、その当時ぐらいに「好きなアイドルベスト10」みたいな企画がテレビなんかであって、そこに彼女が入っていて何で今更アイドル扱いされているんだろうとか思ったが、この作品とZのおかげか。Zの主題歌は聴いたことなかったが、この作品の主題歌は聴いたことがある。

機動戦士Vガンダム』:石井一久並みに立ち上がりの悪い僕としては最初の方はなにが何やらさっぱりわからなかった。ちょっと調べてみたら、どうやら第01話はもともと第04話あたりに入るものだったらしい。そりゃあわかるはずがない。ところでこの作品はあちこちで鬱だと言われていて、ちょっとどうなるかと思ったが、あんまりそんな感じはしなかった。そりゃ人は死ぬが、戦争なんだから死ぬだろ。それよりも僕が気になったのは主人公が以前の作品よりもうざくないということだ。あんまり大人大人言わない。それともうひとつ気になったのは、これについてはまたあとで何か書くつもりだが、主人公が乗っているガンダムが両利きだということだ(正確でない表現かもしれないが)。あと90年代前半はまだ乳首規制(?)はなかったんだな。

機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』:なんか一番しっくりいったかもしれない。何より僕自身にとってよかったのは戦闘中ほとんど会話がなかったということだ。まあ全部で6話と短いのでモビルスーツの戦闘自体もあまりなかったのだが。あとなんといっても子供の描かれ方が富野ガンダムと全く違って、繰り返しになるが「大人、大人」いっている子供に辟易していたので、よかった。主人公には子供的な聞き分けのなさとかもあるのだが、意外と余計なこと言わなかったり、機転が利いたりと、ちょっと感心した。それはそうと宇宙世紀の中で量産型ではないガンダムが最もやられたのがこの作品なのかな。

機動戦士ガンダム0083 Stardust Memory』:なんかガンダム版『マクロスプラス』って感じがした。最後の方でわかることだが、三角関係っぽい三人の物語。まあ『マクロスプラス』ほど大人げない喧嘩って感じではないが、いずれにしても対決する者同士の対話が多くなる。この辺りは『0080』と異なる点だと思う。あとちょっと思ったのは、最後の方にティターンズバスク・オムがでてくるが、違う監督、スタッフの作品でもアニメの場合は同じキャラを出すことができるんだな。この辺りはマンガと違う。もちろん記号として同じキャラを出すことはできるが、作者が違えばデザインは異なる。たくさんの人が原画を描いてキャラデザにしたがって作監が直すというシステムは、作画崩壊というリスクはあるが、異なる作品に(マンガよりも同一性の高い)同一のキャラを登場させることができるというメリットがあるのかもしれない。まあ見る人が見ればこちらのバスク・オムはZの彼とは異なるということが見て取れるのかもしれないが。僕にはわからん。

機動戦士ガンダム 第08MS小隊』:モビルスーツ、というか、ロボットは宇宙で戦うより地上で汚泥とか砂にまみれた方がかっこいいと思う。このことは僕がバレエよりも舞踏が好きということと関連しているのかもしれない。その意味では格好の作品なのだが、ガルマ死去時点で陸戦型とはいえガンダムが量産できてるってちょっとおかしくないか? と思ったらwikiには色々いいわけじみたことが書いてあった。まあでもロボットは量産型になってなんぼだと思う。ちなみに最初は主人公は『無責任艦長タイラー』のタイラーみたいなキャラなのかなとか思ったが、最後の方では粘膜が作り出す幻想に殉じた人のようになってしまってちょっとがっかりだ。まあ死んでないけど。あとがっかりしたのが、特に後半になるとはっきりしていくのだが、主人公のナイーヴさだ。いや別にナイーヴさが悪いわけではないのだが、ナイーヴなものが正しいというのが腹立つ。正確にいうと、ナイーヴな理念を実現するためには、高度な、そして時には狡猾な戦略の実践が必要になる。そういうのをすっ飛ばしてナイーヴな理念だけを喧伝するのには虫酸が走る。今やっている『図書館戦争』にも同じことが言える気がする。富野ガンダムにでてくるガキどもはみなことごとくそうだ。彼らの場合正確にいえばナイーヴを装っているだけだが。

これらを見てみて思ったのは、やっぱり僕は登場人物の心理とか思想とかに興味がないのだなということだ。そういう意味では、僕は心情的にはアヴァンギャルディストなのだなと。直前に書いたナイーヴさに対しての嫌悪感ってのはこのことと関連している。それは表現を飛び越えて(無視して)表現されるものを信頼しうるということを前提としているからだ。アヴァンギャルディストはむしろ逆だ。言ってしまえば幻想よりも粘膜を信じる。もちろんその先の幻想を幻想として信じるということはあり得る。しかしより重要なのはそれを表現する粘膜の方だ。そして粘膜にかかずらっている限り、その先のものなど本来的にはどうでもいい。むしろその表現がどう編成されているか、どんな機能を持つかを知ることの方が重要だ。そしてあらゆる表現は外在化されたものである以上、内面性、心理などはその彼岸にあるものに過ぎない。なんか変な言い方だが。実は「萌え」あるいは登場人物の記号化(というのだろうか?)はある意味で内面性がはぎ取られるプロセスだったのかもしれない。その意味では富野アニメとは全く反対の方向性だ。最近のエロゲ原作とかで意外と(僕にとって)見られるアニメがあるのはそういう理由からかもしれない。なんか大雑把な言い方になるが、ロボットとか「萌え」とかって登場人物の内面性を排除する機能も持っているのかな。正直最近ロボットがでてこないアニメとかあまりみる気がしない。一般的に言うロボットでなくてもいい。『南海奇皇』のようになんだかよくわからないものでもいい。ロボットがでてこなかったら果たして富野アニメを見ていただろうか? まあでもそれはすべてのロボットアニメに言えることかもしれないが。

絵の上手さの話

昔どこかですごく前のエントリーに対してブックマークしたりトラックバックしたりすることは何となくはばかられるという話を読んだことがある。事実あんまりそういう例はないような気がする。ブックマークはそうでもないけどトラックバックは特に。

まあでもしょうがない。というわけでid:yskszkさんの一年以上前のエントリー。漫画における絵の上手さとは何か、という話だ。このことについては僕はアニメ関係の話で演出の良し悪しの問題についてちょっと考えていて、それと多分形式的には同じ問題ではないかと思う。簡単にいって、そこで僕がいっていたことは、絵そのものとその上手さを判断する基準を切り離して考えなくてはならなく、後者は自明ではないということだ。僕は基本的に文学作品でもマンガでもなるべく(ちゃんとできているかわからないが)リテラルに読むようにしているのでその観点からすると後者の判断基準は問題にならない。リテラルに読解するというのはその作品を受容するときに作品に投影される受け手の感情とか判断とかをなるべく排除するという態度だ。言い換えれば作品と作品を取り巻く作品環境を厳密に区別するという態度ともいえる。作品環境というものにはそれを取り巻く社会や受け手の層、あるいは受容の際に喚起されるであろう感情などを含む。その意味では「萌え」なるものそういった作品外的なものに含まれるだろう。別にそういったものがいけないと言っているわけではない。ただそれは受け手の感情に依拠しているものなので作品に内属するものではないということだ。だから作品環境(例えば作品を受容する総体としてのオタクとか)を語るときには非常に有効な概念になるのだろう。もちろんそれは僕自身が萌えをそのように考えているだけであって、そうではない分析方法もあるのかもしれない。

絵そのものとその上手さの基準は全く別の領域に属する。前者は作品に、後者はそれを受容する場、とりわけ受容者に属する。だから「ファインアートにおける「うまい絵」と、漫画における「うまい絵」は別物で」あるというのは正しくない。それが作品ではなくて、受容者に属するなら、ファインアートにおいても漫画においても「うまい絵」というのは別物でない可能性があるからだ。福本伸行の絵をうまいと思う人もいれば、五十嵐大介のそれを上手いと思う人もいるだろうが、それは好みの問題ということもできるが、それよりも言えることは両者の上手さの基準は異なり、受容者はその基準を恣意的に選びとることができるということだ。ここで注意しなければいけないことは、作品と絵の基準は別ものだといままでいってきたが、作品は常にこういった基準に異議を申し立て、そして新しい基準を提示していくだろうということだ。このことはこれまでいったことと矛盾していない。既存の基準が外的なものであるがこそ、作品そのものがそれにあらがい、そこから脱しようとするからだ。おそらくヨーロッパの美術や文学はそのような形で発展してきたのだと思う。フランスでは18世紀ぐらいまでかなりかちっと決まった形の詩の形式があったがそれが19世紀にはいるとどんどん崩れていった*1。もしそのとき詩の上手さを語る人がいたとしたら(いたと思うが)それはその形式を前提としているはずだ。だとすれば崩れて以降の詩はその前提がないのだからその判断の基準も必然的に異なってくるだろう。まあ非常に単純化してしまったが、いずれにいても福本伸行の絵の上手さを測れる基準(の一部)は福本伸行の出現以前にはなかった可能性がある。もちろん彼の作品と彼以前の作品を同時に評価する基準をつくれないということではない。しかしその場合彼のオリジナリティの一部を損なう形で評価してしまうということになってしまうのではないだろうか。なぜならば漫画(だけじゃないと思うが)においてオリジナリティということが言えるとすれば、そこには新たな評価の基準も同時に作り出すということも含まれるだろうからだ。

言いたいことはこういうことだ。僕のまわりには少なからず、作品をダシにして何か違うことを語る(世代、社会、「オタク」など)ことに対して違和感を感じている人がいるが、僕もその一人である。漫画なら漫画を語ろうよ、とか思ったりすることはある。しかしそう考えたときにそれでは絵の上手さというのはそこに含まれるのか、と問われたらそれは多分ノーだと思う。もちろん読んだときにこいつ上手いなとかこいつ下手だなとか思ったりすることはある。しかし僕は僕自身の美的感覚というかもっと言えば思考を信じていないので、それはその時たまたまそう思っただけだろうとか思ってしまう。アニメとかでも作画崩壊とか言う人ってよっぽど自分の眼とか思考とかを信頼しているんだな、それを疑う術を持たないのかな、とか思ってしまう。

*1:おそらくヨーロッパの人には形式は常に外的なものであるという認識があるのではないだろうか。その上でむしろ形式に従え、というポーランの思想などが独特のものとして現れるのだろう。そのあたり日本の詩歌とだいぶ違うのかなと思う。

グルメ漫画の話その2

前のエントリーで変な引きをしてしまったけど、実はあんまり何も考えていなかった。でもあんまり時間を空けるとなんなので書いてみるが、まあ見切り発車で。

まず前のエントリーをまとめる。提示した問いは、味覚の不確かさ(共有できない、人それぞれ)を前にして、いかに料理や飲み物に関する物語を表現していくか、だ。図式的に言えば、Aを飲み物や料理、Bをそれを摂取する人の感覚やもっと言えば満足度、→で因果関係を示すとするならば、A→Bとなるわけだが、本当にこの図式が成り立つかどうかは突き詰めれば誰にもわからない。『ラーメン発見伝』に倣っていうならば、そこには常に味覚とは関係ない「情報」が入り込んでくるからだ。言ってみれば『美味しんぼ』はこの「情報」の方が味覚そのものよりも重要だと言ったということになる。そして『築地魚河岸三代目』では、やや嫌らしい言い方になるが、仲卸は味覚そのものよりも歴史的に積み重ねられた修辞(目利き)を信頼しつつ仕事をしているということになる。ちなみにこの作品について補足すれば、こういった条件の下で、主人公の三代目の人並みはずれた味覚、およびその記憶力が重要になってくる。なぜならその能力は修辞の正しさを証明してくれるからだ。これらの作品は先の図式に戻るならば、A→Bの唯一性というか正当性を盲信するのではなく、その他にもC→BとかD→Bとかいった別の図式を提示しているということができる。CとかDとかには例えば料理を取り巻く空間とか、流行とかを当てはめることができるだろう。

しかし(そうある必要があるかは別として)十分にアヴァンギャルドではないという指摘はできるだろう。僕が理解するアヴァンギャルドとは、厳密な唯物主義、彼岸を認めない態度だ。料理はただ料理であって、その先に何か特定の感覚を規定するということはない(表現できない)、こういった態度だ。たとえば『ラーメン発見伝』においては先のエントリーでも指摘したように、「悪い食い手」を相手にしなければならなかった。しかしそれは味のわかるやつ、つまり「よい食い手」を前提としてそこに含まれない人たちのことだ。言ってみれば「味をわかることが可能である」という前提に立っているということになる。『築地魚河岸三代目』の主人公の鋭い味覚も、まさにそのことを証明する機能も持っている。

で、多分それとは全く違う方向性を持った作品群があるっていうのが今回の話。おそらくこれは傾向でいうと少年誌に多くあるタイプだと思うが、そこで表現される料理そのものよりも、リアクションが大事というタイプ。これは前のエントリーでの区別でいうと味の優劣をはっきりさせるタイプ、特に謎の対決をするタイプに多いと思う。あんまりおぼえていないけど、『ミスター味っ子』あたりがはじまりなのかな。wikiによればこの作品の指摘すべき表現として「リアクション」という項目があり、またこれについて他作品への影響についての記述もあるので、この作品で発明されたかはともかく、まあ初期のものではあるのだなと思う。

テレビのグルメ番組もそうだが、結局映像で表現できるのは料理なら料理の映像と、食べているシーンだけだ。「味覚なるもの」を直接的に表現することはできない。それを感じることができるのは味わった人だけであって、そうなると当然味わった人がどういったリアクションをとるかということが問題になってくる。この場合あるリアクションが特定の味覚の質を表現しているというようには考えない。例えば食べた瞬間の目尻のたれ具合で甘みがわかるとかそういうことではない(と思う)。そうじゃなくてもっと漠然と、美味しそうに食べるかそうでないか、といった問題なのだろう。所詮は他人が食っているわけだから、味なんぞは究極的には伝わらん。そこから諦念とともにリアクションの逸脱が始まる。リアクションが自律してゆく。「味のIT革命や〜(本人がいったのではないらしいが)」というのが何かしら味の質を語っていると考えるものはいまい。むしろリアクションの自律性を獲得するためには、語るべき味の質からかけ離れていればいるほどよい。そしてそのうち語るべき味の質からの逸脱とかそういうこと自体もどうでもよくなってくるだろう。「お前それがいいたいだけなんとちゃうんか」とかいうツッコミを受けることになる。その意味ではギャラクティカマグナムのような必殺技のかけ声と近いかもしれない。

いうまでもなくテレビのグルメ番組のリアクションと漫画でのそれは同じではない。主体の違いというか、テレビの場合は彦摩呂なりホンジャマカ石塚なり個々のタレントが芸としてどう構築するかということが問題になるだろうが、漫画の場合コマの構成が問題なので、食べた本人が何かするということもあるだろうが、なんかイミフなイメージをそこにぶち込むという手もある。たとえば『江戸前鮨職人きららの仕事』ではコハダの握りを食べた女性審査員が「コハダに恋しちゃいそう」とかいいながら詰め襟着たコハダくんにラブレターを渡すシーンがバックに描かれたりする。こうやって文章で説明するとかなりバカらしいがまあそういうことだ。いずれにしてもテレビにしても漫画にしても、リアクションというものが元となる食べ物飲み物から切り離される形で発展してゆくと、多かれ少なかれギャグの様相を呈していくと思う。多分それは必然性を失っていくからなのだろう。その意味で、僕には『神の雫』もギャグのように見えてしまった。これはワインの話なのだが、ひとくち口にするとなぜか場面が変わって急に草原のただ中にいたり、母親がでてきたりする。しかもそのように現れた場面は飲んだ人すべてに共通らしい。で、このように口にすることで現れる映像をもとにして、ブラインドテストを行ってゆく。

前のエントリーで説明した作品群は食べ物飲み物を口にしたときに得られる味覚を中心とした感覚の総体を純粋にその食べ物飲み物に帰すのではなく、その他様々な要素によって重層的に決定されているということを示した。それに対していわばリアクション系の作品たちはリアクションという行為、漫画によって表現できる食べ物飲み物の摂取の結果を原因であるところの食べ物飲み物だけでなく、すべての要素から切り離したといえる。そうすることでリアクションは自律性を持ち、それが行われる背景や読者が(普通ならば)原因と見なすであろうものから切り離されることで必然性を失い、ギャグ化する。ギャグ化するという観点からいうと、おそらく本質的なのは面白いリアクションをすることではない。重要なのは必然性の喪失とそれによる自律性の獲得だ。そしてこのことは何もリアクションだけに限らない。たとえば『食キング』では主人公の北方歳三は流しの「B級グルメ店復活請負人」であり、まず閑古鳥が鳴いている料理屋がある。そこに北方がやってきて謎の特訓をする。そして新しいメニューが出来上がり客は涙を流し鼻水を出しながら喜んで食う。基本的にすべてこのパターンだ。そしてその謎の特訓というのが素晴らしくて、恋人同士でラーメンを作るのに互いの信頼感を獲得するためにサーカスにいってナイフ投げをしたり(片方が的になる)、厨房内を無駄なく動けるようにするために卓球の訓練をしたり、ハンバーグを大量にこねる体力をつけるために相撲部屋でマッサージをしたりする。このようなイミフな訓練をすることで必然性が失われ(北方にとってはそうではないのだが)、どんな料理であってもどんな店であっても変わることのない再建のプロセスによって形式が自律性を持つことで素晴らしいギャグ漫画になっている(と僕は思う)。みんな読むといいと思う。ちなみにどうでもいいことだがこの作者の土山しげるって人は『UFO戦士ダイアポロン』の原作の作画をしていた人らしい。

たしかにこの『食キング』の例はリアクションそのものとは直接的には関係ない。しかし最初に示したA→Bの図式の不確かさに対してどう対処するか、という問題があったとき、前のエントリーで取り上げた作品群はA以外のものを原因としていくつか示すことによって結果としてのBは重層的に決定されているということを示した(その際Aそのものは原因として否定されない、相対化されるだけだ)。それに対してこのエントリーでリアクション系として示したものは『食キング』も含めてA→Bといった図式そのもの、正確にいえばBに前置されるすべてのものを否定する。因果関係自体を破壊するといってもいい。その意味で(この観点からのみ)『食キング』を含めこのエントリーで示した作品たちは前のエントリーのそれらよりもアヴァンギャルドだし、もしグルメ漫画というものを(不確かなものであれ)A→Bの図式の中で理解するなら、これらの作品はどんどんグルメ漫画から遠ざかっているように見えるだろう。

そして僕が読んだ中でこのグルメ漫画から遠ざかるという方向性をかなり突き詰めていったのが『焼きたて!! ジャぱん』だ。まあネットとかで見る限り打ち切りになった作品のようなので作者が望んでそうなったかどうかはわからないが、最初はパンの作り方とかかなり詳しく記述されていてwikiとかによると「プロも読んでいた」らしいがだんだんおかしくなってきて、最後は主人公の仲間がダルシムになって終わる。イミフだが本当にそうなのだから仕方がない。そしてリアクションもかなり末期的な症状になっていたと思う。パンを食べたあと謎の世界に入り込むことが多いが、それが何しろ長い。確か一話まるまるリアクションということもあったと思う。謎の世界に入り込むだけならいいが、実際に姿形が変わってしまうこともあった。確かダルシムにもパンを食べて変身したんじゃなかったっけ。確かに後半は特にもう一般的な意味でのグルメ漫画ではなくなってしまったようだが、僕がいう意味でのグルメ漫画の方向性をある程度まで押し進めた結果であるということはできると思う。

まとめ。最初の問いは次のようなものだ。出された料理や飲み物と食に関する満足感との間を単純な因果関係で結ぶことはできない。なぜなら味覚は人それぞれだし、それを測る共通の尺度は(少なくとも一般人には)ないからだ。そこで二つの選択肢が現れる。ひとつは料理と満足感の関係を相対化するという方向。つまり出されたものだけが満足感を規定するわけではない、いろいろな条件が重層的に絡み合って結果として満足感が規定されるのだという考え方である。それは料理が持っている文化的な積み重ねであったり、食べる側の精神状態であったりするだろう。それに対してもうひとつの傾向はよりラディカルだ。つまり因果関係そのものを破壊しようとする傾向だ。もう料理そのものが美味いとかまずいとか関係ない。いかにおもろいリアクションをするか、料理をネタにしていかにストーリーの形式を作り上げるかが問題となる。この傾向は突き詰めるとそもそも料理をテーマにする必要があるのか、という問いにぶつかるだろう。その意味でラディカルだということができる。

最後に、ブクマでid:Louisさんが指摘なさったことについて。『クッキングパパ』についてだ。一連のエントリーを書いた時まだ読んでなかったが、指摘されて一巻だけ読んだ。これを読んで思ったのは、おそらく僕が読んだものは城アラキ原作のものをのぞいてほとんどすべて「美味さの比較の可能性」を前提として実際に比較している*1。これは上記の二つの傾向どちらにもいえることだ。ここでは取り上げなかった『ザ・シェフ』も同様だ。嫌らしい言い方をすれば、どちらの料理(飲み物)がより優れているかということを問題にしていると言ってもいい。しかし一巻を読む限り『クッキングパパ』はそういった比較を行わない。比較を行わない以上、上述の料理とそれにともなう満足感の関係性の問題は前景化しない。この辺りのことがid:Louisさんが「ジャンルが違う」とお思いになった理由かなと思う。

*1:正確にいえば城アラキ原作のものは美味さの比較の可能性を前提としていないのではなくて、それを前提としつつ、「いや、でも本質的にはみんな美味いのだ」といっている。その意味ではあらかじめ比較をしない『クッキングパパ』とは異なると思う。

グルメ漫画の話その1

グルメ漫画が結構好きで、実際には料理とかにあまり興味がなく、なぜ人は何かを食べなければ生きていけないのだろうとか考えるが、よく読む。まあよく読むっつっても素人が暇つぶしに読む程度なのでたいしたことないのだが、いくつか読んだのでここに何か書きたくなった。

話の前提として「グルメ漫画とは何か」といった類いの問題にぶつかるが、そういった話をするといろいろ面倒くさいので、今回は自分が読んだものを「グルメ漫画」と勝手に名付けて話を進める。読んだのは、『江戸前鮨職人きららの仕事』『築地魚河岸三代目』『ラーメン発見伝』『食キング』『食わせモン!』『華麗なる食卓』『焼きたて!! ジャぱん』『スーパー食いしん坊』(文庫版、より抜きっぽい)『珈琲ドリーム』『ソムリエ』『ソムリエール』『バーテンダー』『神の雫』、あと『美味しんぼ』ちょっとだけ。『ミスター味っ子』とかは昔読んだが、パスタをゆでるのにガラス窓にくっつけるのと、弁当箱に串を刺して温めるのぐらいしかおぼえていない。『珈琲ドリーム』から『神の雫』まではタイトルを見てもわかるように料理ではなく飲み物がテーマになっているが、ここでは一緒に扱いたい。なぜならここで問題にしたいのは、味覚だからだ。「視覚以外の感覚をいかに表現するか」というのは漫画における重要なテーマだと思うが、その中でも味覚というのは聴覚、というか音楽(『To-y』『Beck』『アンコールが三回』とか)とともに漫画において頻出するテーマだと思う。ただ聴覚と違って味覚は合わせ技がききにくい。つまりライブだったらライブのシーンを描けばいいわけだが(つまり視覚との合わせ技)、味覚はそう簡単にはいかない。そのあたりについてはおいおい。

これらを読んでみて、大雑把に二つのタイプにわけられるのかなと思った。ひとつは味の優劣を競うタイプのもの。そしてもうひとつは味の優劣というよりも、その料理なり飲み物を取り巻く人間模様というか、そういったものをきっかけとして展開される物語を記述するといったタイプのもの。少年誌タイプと青年誌タイプといった感じかな。まあ例によって両者の中間に位置づけられるものも多いだろう。『美味しんぼ』なんかどっちに分類されるのかな。まあそれはともかく、たしかwikiには『包丁人味平』が初の料理漫画だとあるので、勝負をしたりする少年誌タイプが先に生まれたのかな。ただどうなんだろう、現在では何というかビッグコミック的というか、(勝負するしないにかかわらず)比較的知識としてもまとも(に思える)ものが披瀝されていて、読んで勉強になったとか思うようなものの方が多いのではないかという気がする。

で、知識って何かって話になるのだが、単純化して言うと、おそらく修辞学と歴史に分かれるのかなと思う。ここで僕が考える修辞学とは、表現と感情を規約的に結びつけた上で、その表現をいかに操作、解釈するかということだ。例えば演劇で言うならば、原初的にはこうこうこういう表現をすることでカタルシスを観客に与えることができたのかもしれないが、次第に「こうこうこういう表現」がそれだけである種の規範として流通するようになり、じゃあ例えば現代そういう表現を行えば原初的に想定された感情を与えることができるかと言えば、そういうことは問題にならない。もちろんそういう感情を受けることは十分あり得るが、それとは別にそういった表現が独立してすでに流通してしまっているということが重要だ。そういった表現の問題が『築地魚河岸三代目』におけるいわゆる目利きだ。目利きとは味の修辞学であるということができると思う。これは非常に重要なことだ。なぜなら、当たり前のことだが、商品を実際に食べて確かめちゃまずいからだ(主人公は実際にそうしちゃっているのだが)。食べることなく、あるいは商品を(解剖などして)損なうことなく、いかに味や鮮度(おそらく両者は必ずしも一致しないだろう)を見極めるか、という問題に直面したとき、味という感覚を種類によってそれぞれ異なる目利きのポイントと規約的に結びつけ、その表現を分類してゆくという知識は不可欠となる。ここで注意しなければならないのは、目利きという知識を獲得することによって何が得られるかということだ。厳密にいえばそれは「うまいものが食べられる」ということではない。一言でいってそれはリスク管理だ。修辞学と感覚、感情との関係は常に規約的なものでしかない。したがって修辞学が扱う記号の先に特定の感覚があるということは保証されてはいない。有り体に言って何をうまいと感じるかは人それぞれな訳だ。より重要なことは、目利きおよびそれを行う仲卸にしたがって手に入れた商品が料理人やすし職人そして彼らの客に満足を与えられるかどうかだ。この作品の中で「仲卸なんてピンハネしているだけだろ」といったような不要論がいわれることがあるが、この修辞学によるリスク管理という点はその不要論に対するひとつの有効な反論となる。もうひとつの有効な反論はコネクションによるリスク管理だ。仲卸の使命は顧客にそれ相応の質のものを安定的に供給することだが、扱うものが自然のものである以上、不漁のときもあるだろうし、また地方のマイナーな商品であれば東京では非常に入手が困難なものもあるだろう。そういった問題に直面したときに、築地(の内部および外部)のコネクションが有効に機能する。実際にそういうことが行われているのか知る由もないが、主人公は築地ではほとんど流通していないものを手に入れるために金沢やら長崎やらの魚河岸に出張したりする。これらすべてのことがリスク管理に繋がる。そして一般的にいってリスク管理は結果(この場合は客がうまいものを手に入れられるか、もっといえば客がうまいと思うか)が不確定なものであるという前提のもとで成り立つ。そう考えると「旬」ってものも修辞に伴うリスク管理のひとつなんだろうなあとは思う。
そしてもうひとつの知識は、歴史だ。まあ「文化」ともいうかもしれない。この点についてはやはり『美味しんぼ』ということになるのだろう。まあ本当にまだぱらぱらとしか読んでないので(最初の数冊と昔かかりつけの歯医者にあったもの、何巻か忘れた)wikiとかに頼らざるを得ないが、それによると食文化に関する問題というのはかなり重要になっている。僕が読んだのは確か刺身にマヨネーズをつけるという話。純粋に味だけで考えるとかなりうまいとある。しかしそれではあかん、ということらしい。刺身に醤油をつけて食うというのは、それこそ(大げさに言えば)歴史的な積み重ねをへて編み出されたものであって、刺身にマヨネーズというのはそういった「文化」を踏みにじるものだと。ここで重要なことは「文化」が味覚よりも優先されているということだ。僕が読んだりほかの人にきいたりした限りだと、この作品ではそういった味覚よりも、それを取り巻く空間というかもてなしというか、そこに至った歴史的な重みとかすべてを味わうことによる快楽として料理を位置づけているようだ。
こういった歴史という知識は飲み物系のグルメ漫画、とりわけ城アラキ原作による漫画において非常に重要な意味を持つ。「歴史」っていうと大げさで、「いわれ」とかいった方がいいのかもしれない。たとえば『バーテンダー』においては、バーは客が抱えて持ち込んできた物語と、そこで出されるカクテルが抱えている物語(いわれ)が出会い交錯する場として描かれている。まあ正直飲み物系は主人公が実際につくったりしないことが多いので(まだ読んでいないが『夏子の酒』はそうではないのかな)実際に味とかを前面に出すのは厳しいのかもしれないが、少なくとも城アラキ原作のものについては「味よりも場、機会」ということは意識的に描かれていて、その上で歴史やいわれというのは大きな役割を果たしているだろう。とりあえず『ソムリエ』の台詞を引用しておく。

そう…
ワインにもまずいワインなどないのです
あるのはただそのワインと出会うにふさわしい「時」だけ…
ソムリエ』第01巻、p.222

これらの作品で指摘できることは、味の良し悪しを価値の基準におかない、ということだ。まあ『美味しんぼ』については一応対決の形式をとっているから単純化することはできないかもしれないが、少なくとも味の良し悪しにこだわりすぎて文化を軽視してはいけないよ、的な教えはかなり意識的に盛り込まれてはいるということは指摘できるだろう。原作者が政治的な主張に偏るという指摘がネットで結構見られるが、そのこと自体は上に述べた意味で間違いだとは思わないし、むしろ必然的でさえあると思う。文化をどう扱うかという問題はしばしば政治の問題とかかわるからだ。そしてその主張の中身がどうかということについてはここではどうでもいい。
それはともかく、ここまでグルメ漫画において味そのものよりも優先されるものとして修辞学と歴史によって構築される知識をあげた。便宜上この二つをかなり無理矢理切り離して考えてきたが、いうまでもなくそれらは深く関連している。修辞とは歴史的な積み重ねによって構築されるものだからだ。いずれにしても人それぞれであって客観性のない味覚というものの上位に知識をおくことでこれらの物語は成り立っているということはできると思う。
この点に関しては最後にひとつだけ挙げなければいけない作品があって、それが『ラーメン発見伝』だ。「ラーメン」ということが重要だ。ほかのグルメ漫画の題材と比べて歴史的な積み重ねはほとんどなく、それゆえ味覚の上位におくものがないように見える。しかしこの作品では「ビジネス」をそこに据えることによって、上に挙げた作品たちと一線を画している。何が一線を画しているかというと、上に挙げた作品にかかわらず、少なくとも僕が読んだほとんどすべてのグルメ漫画(僕のグルメ漫画の定義からしたらこの表現はおかしいのだが)において味の微細な差異を識別できる「よい食い手」がいて、それによって成り立っており、そのことによって例えば『華麗なる食卓』における次のような台詞:

料理に込めた想いは…
絶対相手に伝わる…!
華麗なる食卓』第15巻、p.130

つまり料理によるコミュニケーションが可能だという(僕からしてみたら)幻想すら成り立ってしまうのだが、この作品においてはビジネスである以上「悪い食い手」を相手にしなければならないということだ。この作品では主人公のライバルであるコンサルタントによる重要な指摘がある。それは「多くの客は料理を食っているのではない、情報を食っているのだ」というものだ。非常に重要な指摘だが、十分ではない。というのは、情報を取っ払って純粋に味覚のみで料理を食うということは不可能だからだ。それは上に挙げた他の作品によって間接的に伝えられることでもあるだろう。まあそれはともかく、こういった客を相手にするにあたって重要なことは、うまいものを求めて味を追求しているだけじゃだめだ、ということだ(実際にこのコンサルタントはラーメン屋も経営しているが、逆にそれほどうまくないものをつくることで商業的に成功する)。そういうことを前提とした経営上のノウハウというものが他の作品における「知識」に取って代わる。そしてこういったノウハウを支えるのは作り手の料理人としての実力というよりも、むしろ一発屋的なアイディアであり、客の舌を惑わす情報をいかに利用するかということだ。この作品の新しさははじめて明確にビジネスという観点を導入することによって(物語上も料理そのものにおいても)味覚が優先順位の一位には決してならないということを宣言したというところではないだろうか。もちろん明確じゃない形でなら上に挙げた作品はすべてそうだと思うが。

こんなわけで、かなり強引な読み方かもしれないが、グルメ漫画においておいしさという価値を解体していく作品群があるということはできるのだと思う。「○○だから××は美味い」とあるとき、○○という部分は知識だ。これらの作品群はこの○○の部分を伝えることで味覚という視覚的でない感覚を代替表現した、あるいはその不可能性を表明した、ということができるかもしれない。

もちろんそれだけではない。グルメ漫画にはもうひとつ別の大きな流れがある。まあ言わずもがなかもしれないが、それについて次のエントリーで書こうと思う。なんか長くなりすぎた感があるので。

四月はじまりのアニメその他

最近アニメを見る機会は激減してしまった。1月はじまりのものはいくつか見終えることができたが、まだ見終わってないものとか(00とか)、見終わるのに難儀したものとかあってちょっと大変だった。その中でも『のらみみ』はよかった。なんか続編が決まったようで、それは見るでしょう。そんなわけで先が思いやられるのだが(かえっていいことなのかもしれないが)まあそれでも4月始まりのもののうちいくつは見るだろう。まだ全部で揃ってはいないが、とりあえず今の時点で第01話を見たのは『コードギアス R2』『マクロスF』『RD 潜脳調査室』『図書館戦争』ぐらいかな。あと『ドルアーガの塔』も見たか。これについては見続ける自信がない。まあ最悪前者二つについては見続けるとは思う。あとたった今『カイバ』を見たが、完全にイミフ。でも『ケモノヅメ』は面白かったので見る。

マクロスシリーズについては多分一通り見たと思う。その上で『マクロスF』では河森正治的な世界なり生なりの認識がどのように展開されるのかなという点に注目するのだと思う。この点ではマクロスシリーズは一貫していたかなと思う。正確にいうと一貫したテーマのもとに思考が発展していったなという感触を受ける。そして『マクロス II』がどの点において逸脱していたかということもわかる。繰り返しここで述べてきたことだが、マクロスにおける河森的問いとは、いかに戦わないか、ということだ。ファーストシリーズでは得体の知れない敵(の一部)と手打ちをすることになる。劇場版では歌が戦争を終結させるシーンがクライマックスとなる。まあちょっと『マクロスプラス』についてはおいておくとして、歌は戦いと対立している。見方によれば歌が戦いを終わらせるということを示すことで争いを集結させることの不可能性を戯画化しているといえなくもない。この観点において『マクロス II』は逸脱している。確かそこでは歌は兵器として使われていたと思う。これは河森的な考えとは全く逆ではないかと思う。歌とは兵器ではなくて、変な言い方かもしれないが、「戦争をしないための武器」のようなものだ。この違いは大きいと思う。そしてそれをはっきり示したのが『マクロス7』だ。ぼくがこの『マクロス7』を見て感じたファーストシリーズとの一番大きな違いは、前者に至ってネゴシエーションがなくなったな、ということだ。バサラが「何でわかりやがらねえんだ」というとき、歌と歌に込められた想いのようなものの一対一の対応を前提としている。だから歌を歌えばわかるはずだという確信がバサラに生まれるのだ。これは言い換えればネゴシエーションの不必要性を示している。ネゴシエーションとは言葉と言葉に込められた意図やら意味づけやらがわからないから行われなければならないことがらであり、異なる利害をもつがゆえに必要な擦り合わせだ。こういった両者の間のズレと表現するものとそれによって表現されるべきものとのズレがあるがゆえに対話が成り立つのではないだろうか。言い換えれば、極端な言い方をすれば「伝わった」ということをもって対話というのではなくて、「伝わらなかった」ということをもって対話というのではないだろうか。あるいは「伝わらなかった」にもかかわらず起こりうる出来事を対話というのかなとか思う。id:nuryougudaさんはトラックバックで『マクロス7』における対話について語っておられるが、むしろこの作品で示されているのは対話の欠如なのではないかと思う。

河森的問いを突き詰めると対話を必要としなくなるのではないか。そしてその前提には対話をするとされる人々がみな共有しているはずであるある種の目的というか、「善きもの」への信頼があるように思える。このことが彼にとってはエコ的なものと結びついているのだろう。そしてその限りにおいて敵はいない。なぜなら一方にとっての「善きもの」は他方にとってもそうだからだ。戦おうとする者は「悪い」からではなくて、理解が足りないからだ。逆に言えばそういった自分たちも共有しているはずの「善きもの」を理解すれば、戦う必要などないということがわかるはずだと。だからバサラは「なんでわかりやがらねえんだ」と嘆く。

こういった問いが『マクロスF』ではどう展開されるのかというのが興味の中心かな。